「くいちらかす」
とか、
そういう言葉が日本語にあって
ふっと気が付き、うれしくなります。
その言葉の概念、理念が自分の中にあること。
他の人と共有できていること。
それが、あるとないとでは大違い。
マナーともまた違う、なんというか、
その言葉に沿うことで、
こころの中での、
理念が、整う気がするのです。
理念というのは、うまく言いにくい表現ですが
たとえば、人になにかを売るというのは
究極的に言えば
商品にメッセージをたくすことではないかと
思っていますが、
もてなしの表現の方法として
その時期に手に入る最上の素材を求めて
南へ北へ走り回る、ご馳走の概念がそのもの。
愛しているの表現では
自分の持てるものをアイテムとして使うのが
プレゼントやギフトなんだと思うのです。
話はとびますが、
iPhoneは 日本人が作るものだったと思うのですが
技術者は優れている技術を使うことが
目的にした自己満足に走り、失速してしまっているように
思います。
愛してるの表現としたら、きっとiPhoneができたはず。
フォルクスワーゲンのビートルには
一輪挿しがセンターコンソールの
真ん中にあります。
つかわないかもしれない。
けれど、その心があるかないかで
ずいぶん違う気がします。
日本車では、缶ホルダー以前は
灰皿のあった場所。
ワーゲンビートルにはガラスの一輪挿しがあります。
それを真似して
手で伸ばしてとった、道端のコスモスを空き缶にさして
運転したりしてたこともありますが
やはり、一輪挿しでなくてはならないと感じました。
間に合わせではだめなことってあるんです。
本気で花を飾るなら。
節度を持って覚悟して、なにかに臨みたい。
なにかをしようとするなら。
あるとき、ないとき、これは、いいけどあれはイや
そういうことではなく、
すべてを受けたいと思う、
無農薬野菜の理想です。
畑まるごとできたものを受け止めたい。
明日は、かたちの整っていない人参で作っていただく
ジャムの話を書きます。